1300年と1ヶ月
こんばんは! 癒しの風foomiのふうみです
4月末、天河神社に行ってからというもの(→天河神社旅行記1 →天河神社旅行記2)、一緒に行った3人に関係する過去世を次々と思い出すハメになりまして(笑)、ほぼ毎日、浄化のワークをしていました。泣いたり笑ったり、なんとまぁ忙しい1ヶ月でした
そのうちの一つが、大海人皇子(後の天武天皇)と額田王(ぬかたのおおきみ)の恋物語でした。
この前、やっと私側の浄化が終わったのですが、なかなかチャージの解放がうまくいかず、解放まで約1ヶ月もかかってしまいました
正確には、約1300年と1ヶ月ですが(笑)。
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私は、額田王の分け御魂(わけみたま)をもらっています。
分け御魂って何? …という方がいるかもしれませんので、簡単に説明します。
地球での人間の転生の仕組みは、長居和尚がおっしゃっていることが正しいと私は考えています(詳細は、長居和尚のセミナーでお聞きください)。
人間が死ぬと、その魂は3000~5000くらいに小さく分かれます。その分かれたものがその他のたくさんの魂の分かれたものとミックスされ、また3000~5000くらいのかけらとして集まって、次の一つの魂となります。
ですから、ある過去の人物の分霊はたくさんいます。
同じような前世の記憶を持っている人は複数いますし(その時代の集合意識として引き継ぐ場合もある)、その魂の割合が大きい人であれば、引き継ぐ性格や記憶(チャージ、カルマも含み)は大きくなるのでしょう。
なので誰しもが、ちょっとした歴史上の有名人の分け御魂をもらっている可能性があります。
(歴史上の人物で、理由もなく、とても好きだったり、共感するような人物がいる場合は、自分がその人の分け御魂だったり、関係者だったり、その時代に生きていた可能性が高いと思います。ただ分け御魂率としては、何千分の1という小さい場合も多いでしょう)
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あなたは、万葉集の中にある有名な歌、
「あかねさす 紫野行き標野(しめの)行き 野守は見ずや君が袖振る」
という歌をご存じでしょうか?
結構有名なので、知らない人は学校の授業中寝ていたんだと思いますが(笑)、これは、天智天皇の7年(668年)、蒲生野(がもうの)に皇族たちが遊猟した際、額田王が大海人皇子(額田王の元夫で後の天武天皇)に詠んだ歌です。意味は、
「あかね色に匂う紫の草の生える標野をあちこち行き来なさりながら、あなたは盛んに袖を振ってらっしゃる。そんなことをして、野の番人に見つかるではありませんか」
ということで、標野でしきりに自分に手を振る元夫(大海人皇子)に対して、「あんた何やってんのよ、夫が近くにいるのに。」的な歌です
その返歌が、大海人皇子(のちの天武天皇)の以下の歌。
「むらさきの にほへる妹(いも)を憎くあらば 人妻ゆゑに吾恋ひめやも」
(紫の美しい色のように匂うあなた。あなたのことが憎らしかったら、何もこんなにも恋慕いはしません。もう人妻のあなたなのに)
この二人の問答歌は、情熱的で大胆な恋の歌のようですが、一説には、彼らが既に人生の後半にさしかかった頃、酒宴を盛り上げる余興的な意味合いで冗談っぽく詠んだものとも言われています。
実際のところはどうだったのでしょうか?
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話は変わって、10年前。
私がスピリチュアルの「ス」の字も知らなかった頃(笑)。
当時、広島に住んでいた私は、当時付き合っていた彼(今の夫)の家族がいるという、滋賀へ遊びに行くことになりました。
近江八幡駅から近江鉄道に乗って線路沿いの景色を見た途端、既視感となつかしさで、胸がいっぱいになってきました。「ここが好き!」と強く感じました。
降りた駅は、東近江市の八日市駅。
電車から降りて駅前に出ると、そこには額田王の歌碑が建っていました。
「あかねさす 紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖振る」の歌碑です。
その歌碑を見た途端、私は涙が止まらなくなって、その場で号泣してしまいました。
全然意味がわかりません(笑)。でも、感情があふれて、涙が止まらないのです。
そして10年後。
私はなぜか、その歌の舞台となった「蒲生野(がもうの)」から車で15分のところに越して来ることになりました。さらに、家の近くの竜王町には、額田王や鏡王女の生家ともいわれる「鏡神社」がありました。その神社はたまたま通りかかったのですが、由緒書きの立て札に額田王の名前があって「なぜここに額田王が?」と驚いたことを覚えています。
引っ越ししてから間もなくして、私がどうやら額田王の分け御魂をもらっていることには気付きましたが、それ以外のことは思い出せずじまいでした。
額田王の何のチャージ(感情の置き忘れ、浄化が必要な感情)が残っているのか、思い出した理由は何か、何を浄化しなければならないのか、ということが、なかなか出て来ないのです。
1ヶ月前、天河神社の帰りの電車の中、三角関係のツバメのことを思い出し、「ん? 三角関係と言えば…」と思いついたのが、大海人皇子(天武天皇)・天智天皇・額田王の話でした。
天川に一緒に行ったクックちゃんは、実は、大海人皇子(天武天皇)の分け御魂を持つ一人のようで、そのために、いろいろ思い出すことになったようです。
そして、天武の兄である天智天皇に意識を合わせてみると…分け御魂を持っていたのは夫でした。
天智天皇といえば。
天川に行く1ヶ月前、雄琴温泉に用事があった私と夫が、なぜか立ち寄ることになった近江神宮。夫は外国人なので、一緒に神社に行くことは少ないのですが、珍しく一緒に行ったその近江神宮の御祭神は…天智天皇でありました。なんたる偶然(笑)。
天智天皇が崩御したときに、額田王が詠んだ歌があります。
やすみしし わご大君の かしこきや
御陵仕ふる 山科の 鏡の山に
夜はも 夜のことごと 昼はも 日のことごと 哭のみを
泣きつつありてや 百磯城の 大宮人は 去き別れなむ
(私の大君のおそれおおい御陵に対し、山科の鏡山で、夜は夜通し昼は一日、 声を上げて泣き続けています。そんな大宮人達は、ここを去って別れて行くのでしょう)
この歌を読むと、天智天皇が亡くなったと聞いた時の悲しみが胸に広がって、涙が出ました。
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額田王の分け御魂の一人である私の解釈は、こうです。
額田王は、後の夫の天智天皇を愛していました。
最初は嫌々ながら天智天皇の後宮に入ったものの、彼女はその状況を受け入れ、その後、少しずつ夫を愛するようになっていきました。
ただ、前夫の大海人皇子(天武天皇)のことは忘れられず、その気持ちを抑えて生きていました。
時は流れ、人生も後半にさしかかり、蒲生野に出かけた際、屈託もなく自分に手を振る前夫(大海人皇子)を見て、彼女は、今まで気付かぬふりをしていた彼への愛しい想いに気付きます。
余興の席での歌として作った「あかねさす 紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖振る」という歌は、みんなが知っているネタ(自分は天武の前妻であること)でウイットをきかせて作りましたが、実はその歌の裏に、彼女は自分の本心を100%込めて詠んだのです。
あなたが愛しい。
でも、私は今はあの人の妻なのだから。
今さら、どうしろと?
という本心です。
大海人皇子からの返歌は、余興の席で大いに盛り上がり、額田王もそれをみなで笑って楽しみました。でも、その夜、彼から送られた歌を反芻し、彼女は泣きました。
あの時、どうして、私を手放したの?
なぜ、渡さないと言ってくれなかったの?
数日前、額田王が天智天皇の後宮に入る前に、大海人皇子と口論になっている場面がビジョンで見えました。。
兄の天智天皇から、額田王を後宮に入れたいとの申し入れがあり、それを大海人皇子が妻の額田王に伝えたシーンです。
大海人皇子としては、兄である天智天皇の命令とあっては、受け入れざるを得ない。
でも額田王としては、夫が、なぜ自分の妻を自分の兄に平気で差し出すのかわからない。なぜ、ノーと拒否して抗議しないのか、彼の心が理解できない―――。
結局二人の想いは平行線のままで、後宮に入る際も、口をきくこともなく別れています。
額田王としては、意固地になることで夫に抗議し、自分の想いをわかって欲しかっただけなのですが、結局、そのままきちんと話をする機会はなく、離れてしまったようです。
夫婦ゲンカであれば、いつか仲直りもできたでしょう。
でも、二人はもう夫婦でいることはできず、二度と一緒に暮らすことはなかったのです。
10年前、私が歌碑を詠んで泣いてしまったのは、その時の感情があふれてきたからでしょう。
そのビジョンを見た2日後、やっと私の魂の中にいた額田王は、やっと光に還りました。
彼女の気持ちを私がしっかりと理解し、味わうことで、彼女の感情はやっと浄化されたのです。
気付いてから1ヶ月。正確には、約1300年と一ヶ月。
なんとまぁ、長いこと!(笑)
額田王、やっと上がれてよかったね
あなたは、ちゃんと愛されていたのです。
あなたの詠んだ愛のこもった歌は、これからもいろんな人の心をゆらしていくことでしょう。
ありがとう
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